3つの分類のうちのもう1つが、摂浄土の願(しょうじょうどのがん)と言います。これは、「このような浄土をつくりたい」という願いです。浄土とは、仏の国のことです。「このような仏の国をつくりたい」というのが、摂浄土の願です。四十八願の中、第三十一願、第三十二願に、「このような仏の国をつくりたい」と誓われています。. たとひわれ仏 を得 たらんに、国 中 の人 天 、衣 服 を得 んと欲 はば、念 に随 ひてすなはち至 らん。仏の所 讃 の応法 の妙 服 のごとく、自 然 に身 にあらん。もし裁 縫 ・擣 染 ・浣 濯 することあらば、正 覚 を取 らじ。). 四十八願(しじゅうはちがん)とは? 意味や使い方. 戒と聞と精進と三昧と智慧との威徳は、侶なくして、殊勝にして希有なり。. 一連番号をクリックすると対応する現代語文が参照できます。. 回向とは、自らがつんだ功徳をめぐらして、ひろく生きとし生けるものにめぐみ、ともに阿弥陀如来を見たてまつり、安楽国に生れよう、ということである。. 器世間 の清浄なることを観察することは以上で終わった。.
難読名字「四十八願(よいなら)」|四十八の願いとは何のことか? - 1から分かる親鸞聖人と浄土真宗
「正道 の大慈悲、出世の善根より生ず」とは平等の大道である。もとより平等の道であるからこういうのである。正道 と名づけられるわけは、平等とは諸法の根本の相であって、諸法が平等であるから、法蔵菩薩の発せられた願心は平等である。発せられた願心が平等であるから、修行の道は平等である。道が平等であるから大慈悲である。大慈悲こそは仏道の正因である。(だから平等の道を正道 というのである。). お経には、漢文で書かれておりますが、今読んだものはその漢文の書き下し文になります。後の阿弥陀仏である法蔵菩薩が、四十八の願いの十八番目に誓われた第十八願は、このような御文になります。これだけでは、分かりづらいかと思いますので、書き下し文と、現代語訳を対比しながら見てみましょう。. 私が仏になる時が来ても、我が国土の人々や神霊の寿命に限りがないようにできなければ、私は仏にはなりません。ただし、自分の願いで寿命の長短を自由にしたい者はその限りではありません。 |. 聖道門では、自分の修した善因を仏果菩提を得ることにさしむけ(菩提回向)、自己の善根功徳を他の衆生を利益するためにさしむけ(衆生回向)、善根の事を平等の理にさしむけて一一の善が真如法性の顕現であると観じて平等法身の理をさとること(実際回向)を意味し、これを三種回向という〔大乗義章〕。. 浄土真宗【正信偈を学ぶ】第10回_阿弥陀仏の四十八願と第十八願 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺. 中2数学 証明 菱形や長方形の性質の証明で、平行四辺形の定理を使うことがありますが、その. 釈尊が舎衞国 でお説きになられた『無量寿経』(阿弥陀経p. 浄土真宗【正信偈を学ぶ】第10回_阿弥陀仏の四十八願と第十八願. 設 我 得 佛 ・十方 衆生 ・發 菩提 心 ・修 諸 功德 ・至心 發願 ・欲生 我 國 ・臨 壽 終 時 ・假 令 不 與 ・大衆 圍 繞 ・現 其 人 前 者 ・不 取 正 覺. 私が仏になったならば、全ての生きとし生けるものが、私の真心からの願いを疑いなく信じ、浄土という仏の国に往き生まれたいと思い、たとえ十回でも念仏するならば、必ず浄土に往き生まれる。もしそうならなければ、私は仏とならない。ただし、五逆という罪をおかしたり、真理である仏の教えをそしったものは、その救いから除かれる。. 付属流通・聞法得益(「仏、弥勒に語りたまわく」). また、この論の後の論述の文の中にも、「五念門を修める」といわれている。五念門の中で礼拝は、その一つである。天親菩薩は、すでに往生を願っていられるのであるから、礼拝せられぬはずはない。ゆえに帰命は礼拝であることが知られる。.
声聞・菩薩・天・人の 衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよく知るところにあらざるなり。. 観経は、ただ十悪・五逆などの罪を造るといって、仏法を謗るとはいわれていない。仏法を謗らないから、こういうわけで往生を得るのである。. 衆生 の願楽 するところ、一切よく満足す。. 難読名字「四十八願(よいなら)」|四十八の願いとは何のことか? - 1から分かる親鸞聖人と浄土真宗. それゆえ「須弥山王の如く 勝妙にして過ぎたる者なし」 といわれたのである。. また、正法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人間は、すでに仏法を謗っているのであるから、こういうものが浄土の往生を願うはずがない。たとい信がなくて、ただ浄土の安楽なるを聞いて、その楽しみを貪むさぼって往生を願うものがあるとしても、あたかも、水でない氷、煙の出ない火を求めるのと同様で、往生をうる理のある筈がない。. 仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、項背に日光を受けても、愚痴を除くことができぬ。.
業力-It's Automatic その4
日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし。. 布施・調意・戒・忍・精進、かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。. 仏、阿難に語りたまはく、「ときに世饒王仏、法蔵比丘に告げたまはく、〈修行せんところのごときの荘厳の仏土、なんぢみづからまさに知るべし〉と。 比丘、仏にまうさく、〈この義、弘深にしてわが境界にあらず。やや、願はくは世尊、広くために諸仏如来の浄土の行を敷演したまへ。われこれを聞きをはりて、まさに説のごとく修行して、所願を成満すべし〉と。 そのときに世自在王仏、その高明の志願の深広なるを知ろしめして、すなはち法蔵比丘のために、しかも経を説きてのたまはく、〈たとへば大海を一人升量せんに、劫数を経歴せば、なほ底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、至心に精進して道を求めて止まざることあらば、みなまさに剋果すべし。いづれの願か得ざらん〉と。ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。. 阿弥陀如来は48の願を立てていらっしゃいますので、阿弥陀如来の四十八願と呼ばれます。. 答。『観経』にいうのは、十念とは往生の業がまっとうしたことを明かすのみで、必ずしも念ずる数の多い少ないを知る必要はない、ということである。たとえば、夏ぜみは、春や秋を知らない。といってこの虫自体が、いまは夏の季節だということを知るはずもない、というようなものである。それを知る者が、夏の季節であるというだけである。十念の業がまっとうしたというのも、これと同じで、(人間の)はかりしれぬ境地に到達したもののみが、十念というのである。. 親鸞は『教行信証』「化身 土 巻 」の標挙の文において、「仏説観無量寿経」を至心 発願 の願(第十九願)、「仏説阿弥陀経」を至心 回向 の願(第二十願)と対応させて書いた。「化身土巻」ではこの二つの願に基づいた権仮 方便 の教えを示している。. 念仏と諸善、本願と要門を対比して、回不回向 対〔行巻〕、不回回向 対〔愚禿鈔〕を立てる。「一念のほかにあまるところの念仏は十方の衆生に回向すべし」〔親鸞証人御消息集〕という回向は常行大悲の報恩行であり自力の回向ではない。. だから、私が仏となるときには、私に値遇 するものはみな、無上の大宝 をすみやかにとく満足するようにと願っていわれたのである。. 弥陀の名号について、「真実功徳ともうすは、名号なり」(p. 543 一念多念文意)「広く功徳の宝を施せん」(p. 025大経ーp. 3] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年). 第三十三願 触光柔軟の願・摂取不捨の願/ 第三十四願 聞名得忍の願. それまでの仏教でも念仏は大変重要な修行と位置づけられていました。朝題目 夕念仏と言われるように、比叡山でも朝は南無妙法蓮華経と題目(お経のタイトル)と唱え、夕方には念仏を唱えるという修行が行われていました。念仏も数多くある修行の一つだという位置づけです。もちろん法然も実践したことでしょう。しかしこのような修行で自分が救われ得るのか、成仏することができるのか、法然上人は自問自答を続けたようです。.
経(大経・小経)に説かれてある。「日夜に六度、宝衣をふらし、宝華をふらせる。そのものの質が柔らかで、その上をふめば四寸下り、足をあげるにしたがってまたもとどおりにかえる。用い終れば地面の中に入ることは、水が穴に入るのと同じようである」と。. 会員ランクの付与率は購入処理完了時の会員ランクに基づきます。. 正像末 の三時の一。像とは映像の意で、釈迦牟尼仏の正法が映像されている時代ということで像法時という。正法時には釈迦の教法とそれを修行する道、及びそれの完成(証果)がともに存するが、像法時には、教行はあるとはいえ、もはやそれを如実に証りうる者がいない。曇鸞は『大集月蔵経 』等によって、正法五百年、像法一千年と考え、天親菩薩を像法時の人としたと思われる。. だから仏は大悲の心を興 したもうて、私が仏と成るには、この上ない正見の道をもって、清浄な国土を起し、人々をこの三界から出させようと願われたのである。. 我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、この願満足せずは、誓う、正覚を成らじ。我、無量劫において、大施主となりて、普くもろもろの貧苦を済わずは、誓う、正覚を成らじ。我、仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ。離欲と深正念と、浄慧と梵行を修して、無上道を志求して、もろもろの天人の師とならん。神力、大光を演べて、普く無際の土を照らし、三垢の冥を消除して、広くもろもろの厄難を済わん。かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅せん。もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。功祚、成満足して、威曜十方に朗らかならん。日月、重暉を戢めて、天の光も隠れて現ぜじ。衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。つねに大衆のなかにして、法を説きて師子吼せん。一切の仏を供養したてまつり、もろもろの徳本を具足せん。願慧ことごとく成満して、三界の雄たることを得たまえり。仏の無碍の智のごとく、通達して照らさざることなからん。願わくは我が功慧の力、この最勝の尊に等しからん。この願、もし剋果すべくは、大千感動すべし。虚空のもろもろの天人、当に珍妙の華を雨らすべし。. 「門」とは、大義に達するところの入口である。. 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかといえば、ある国土を見られるに、川や海の水が大波をたて、にごり泡だって人々を驚かせたり、流水が迫り来って人々をとじこめおびやかしたりする。このような事態に向うと、安らかな悦びの心もなくなり、あとからふりかえってみると、恐怖の思いをいだくのである。. それ以降は「佐藤」や「鈴木」などの名字を誰もが持つようになりましたが、日本には(既に存在しない名字まで含めて)30万種の名字があるそうです。. 上 の意に、身を動かすことなく、しかもあまねく十方世界に至る、といっている。「動かずして至る」とは、とりもなおさず「一時に」という意味ではないか。(とすれば)この章とどのような差別 があるのか。. この二句を、荘厳上首功徳成就と名づける。. 仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、泥土をもって住居の飾りとし、木や石をもって、はなやかな楼閣とする。金を彫り玉をちりばめようとしても、なかなか心に満足できない。あるいはそれらを造るのに多くの苦しみを受けねばならない。.
浄土真宗【正信偈を学ぶ】第10回_阿弥陀仏の四十八願と第十八願 | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺
次回は、「五劫思惟之摂受」(ごこうしゆいししょうじゅ)の五劫について、なぜ法蔵菩薩は、四十八願を建てるのに、五劫というとても長い時間を要したのか。長い時間をかけたということには、どういう意味が込められているのか。五劫という言葉に込められた意味について、見ていきたいと思います。. とくふたいてんがん・もんみょうふたいのがん). このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。. ※註者(曇鸞自身を指す)がいう。この世界では、土や石や草やまたは木などにはそれぞれ別々の定まった体ものがらがある。翻訳者はどういうわけで浄土の宝に草という文字をつけたのであるか。それはよく風に靡いてやわらかく動く草のようであるから、草の文字をもってこれに名づけただけである。もし自分がその翻訳に参加したならば、もう少し方法があったであろう。. こういうわけで「私が仏となった時には、自分に遇うたものは、みな速やかに無上の大功徳を満足せしめよう」と願われた。. 内容は次のとおりです。法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が、世自在王仏(せいじざいおうぶつ)に出会い、すべての生きとし生ける者を救いとろうと四十八の願を説きます。そして、その願を説き終わった後に、この四十八願が確固たる願いであることを重ねて宣言して実現することを誓っているのがこの偈文です。そのため、重誓偈とも言われています。また、この偈文の前半部分で四十八願の要旨を三つの誓いにまとめ、それが実現できないときは、「私は仏になりません」といっているので、三誓偈と呼ばれています。. 「十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)」という部分は、「全ての生きとし生けるものが」という意味です。.
胎生 ・卵生 ・湿生 のこと。これに化生 をくわえて四生 という。四生とは、衆生のあり方を生れる状態によって四つに分類したもので、これによって衆生の輪廻転生を説く。胎生とは人や牛馬の如く、母胎内で身体の各部を備えて生れてくるもの。卵生とは鳥類の如く、卵で生れてのち孵化 するもの。湿生とはアメーバーの如く、湿気によって(細胞分裂)生れてくるもの。化生とは天上界のごとく、父母の因縁によらず忽然と生れるもの。今、化生をいわないのは、和讃に「正覚の華より化生して」とある如く、化生には真実報土に往生する正覚の化生があるので、それとの混乱をさけるため略したものとも考えられるが、胎卵湿生とあるなかには、忽然と生ずる化生も含まれている。. また『摩訶衍論 』(智度論)にいわれている。「仏土は種々あって同じでない。ある仏土はもっぱら声聞 僧だけがおり、ある仏土はもっぱら菩薩僧ばかりである。またある仏土は菩薩と声聞 とがあつまって僧を形成している。たとえば阿弥陀仏の安楽国などがこれである。」と。これは声聞 が存在する第三の証である。. たとえば鴆鳥 が水の中に入ると、魚や、はまぐりなどがみんな死んでしまうが、犀 のつのが、これに触れると死んだものがみな活 きかえる、というようなものである。. 正定聚は悟りに至ることが決まっている位のこと. そして、五劫というとても長い時間をかけて思惟し、様々な仏の救済法の中から、粗悪なものを選び捨て、南無阿弥陀仏の意味を聞きひらいていくことによって救われていくという、すぐれた救済法を選び取り、阿弥陀仏という仏となられたのです。. 「優婆提舎」 というのは、これは仏の論議経の名である。. なぜ依るのかといえば、その経に説かれてある如来は真実功徳の相だからである。. だから「もろもろの珍宝 の性 を備えて、妙荘厳 を具足せり」というのである。. またこの『浄土論』には、ただ「二乗の種は生じない」とだけいわれている。つまり安楽国には二乗の種子は芽をださないというのである。どうして二乗が来り生れることまで、こばむことがあろうか。. 仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、仏や賢聖などがおられても、五濁の世界であるから、一乗の法を分けて三乗として説かねばならぬ。あるいは眉をひらいて媚態を呈すると誚(そしり)を受ける。あるいは唖(おし)と生まれて指をもって語るために譏(そしり)を受ける。. 「我依修多羅 真実功徳相」というは、我は天親論主のわれとなのりたまえる御ことばなり。依 はよるという、修多羅 によるとなり。修多羅 は天竺のことば、仏の経典をもうすなり。仏教に大乗あり、また小乗あり。みな修多羅 ともうす。いま修多羅 ともうすは大乗なり。小乗にはあらず。いまの三部の経典は大乗修多羅 なり。この三部大乗によるとなり。真実功徳相というは、真実功徳は誓願の尊号 なり。相はかたちということばなり。. 国土17一切所求満足 ) 衆生所願楽 一切能満足. だから私が仏となるからには、その妙 なる名声をはるか十方のはてまでおよばぬところのないようにゆきわたらせ、聞く者すべてをして無生法忍をさとらしめようと、とくに願っていわれたのである。. たとひわれ仏 を得 たらんに、国 中 の人 天 、ことごとく三十二 大 人 相 を成満 せずは、正 覚 を取 らじ。).
四十八願(しじゅうはちがん)とは? 意味や使い方
無量寿経には「浄土の往生を願うものは、みなこれを得る。ただ、五逆罪と仏法を謗るものとを除く」と説いてある。観無量寿経には「五逆・十悪などいろいろの善くないしわざをそなえているものも、また往生できる」といわれている。この二つのお経の意をどう解釈すべきであろうか。. たとえば、人が毒の矢を受けて、あたったところの筋がきれ、骨が破れたとしても、もし滅除薬を塗った鼓を聞けば、矢は抜け出て毒も除かれるようなものである。. いわゆる凡夫の世界の諸々の善根、それによっておこる結果は、因であれ果であれ、みな本末を顛倒 し、みな虚偽 である。だからこれを真実でない功徳というのである。〔化本p. 152頁「一人の目闇の比丘の」→「一人の失明の比丘の」. もし心が他のことを考えるならば、その考えをもとに戻して念ずるから、何遍念じたということがわかる。しかしながら、その念の数を知れば、また間が切れて相続ではない。もし心を凝らしてそのことに想いを注ぐならば、どうして念の数を知ることができようか。. 法蔵菩薩は、これを見られて大悲の心をおこされ、「わが国土は、宝の網をめぐらして空を覆い、大小の鈴がいろいろの音をたてて尊い法を説き、これをながめてあくことなく、さとりの道を心に念じ、その徳をあらわさせよう」と願われた。.
第十八願とは、このような願い、誓いになります。この第十八願を、法蔵菩薩、阿弥陀仏の根本の願いであるとして、本願と言っているわけです。. 【14】 また、その国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり。金樹・銀樹・ 瑠璃樹・玻瓈樹・珊瑚樹・碼碯樹・硨磲樹なり。あるいは二宝・三宝、乃至、七宝、うたたともに合成せるあり。あるいは金樹に銀の葉・華・果なるあり。あるいは銀樹に金の葉・華・果なるあり。あるいは瑠璃樹に玻瓈を葉とす、華・果またしかなり。あるいは水精樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいは珊瑚樹に碼碯を葉とす、華・果またしかなり。あるいは碼碯樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいは硨磲樹に衆宝を葉とす、華・果またしかなり。. 「婆藪 」を天と訳し、「槃頭 」を親と訳する。この人を天親と字 する。この人のことは『付法蔵経 』に出ている。. 「優婆提舎 」とは、仏の説かれた論議経 の名である。. 依報の国土荘厳を器世間 清浄、正報の仏・菩薩荘厳を衆生世間 清浄といい、二種清浄という。. 設 我 得 佛 ・他方 佛 土 ・諸 菩薩 衆 ・來 生 我 國 ・究竟 必至 ・一生 補處 ・除 其 本願 ・自在 所 化 ・爲 衆生 故 ・被 弘誓 鎧 ・積 累 德 本 ・度 脱 一切 ・遊 諸佛 國 ・修 菩薩 行 ・供養 十方 ・諸佛 如來 ・開化 恆沙 ・無量 衆生 ・使 立 無 上 ・正 眞 之 道 ・超 出 常 倫 ・諸 地 之 行 ・現 前 修 習 ・普賢 之 德 ・若 不 爾 者 ・不 取 正 覺. 仏はもと、なぜこの荘厳を起したもうたかといえば、ある国土を見られるに、金や玉を宝として重んじているが、それを衣服とすることはできない。よくうつる鏡を珍らしがって翫 んでいるが、それを敷具にあてがうことはできない。つまりこれらによって目を悦 ばせることはできても、身を便利にすることはできないのである。このようであっては、身と眼の二つのはたらきは、どうして矛盾しないことがあろうか。. わたしの国とは、阿弥陀仏の仏国土、つまり極楽 浄土のこと。. この三界は、みな有漏のまちがった行によってあらわれるところであり、長い迷いの夢を見ておって、出離を願うということを知らない。. 三には、(内観のない)自らの悪を反省しない人は、他の人の勝れた徳をも破壊する。. 【原文】一切善悪の凡夫、生まるることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなきなり、と。.
この浄土は、かの聖種性の位でおこされた願によって得られたのである。いまは成就した結果の上でその因を語るから性というのである。.